島原藩と能楽
「文武両道こそ藩の基盤である」 ―― 初代松平島原藩主・忠房の言といいます。
歴代藩主は様々な絵図や巻物、書物を残しました。それが今でも島原図書館内の肥前島原松平文庫に伝わり、蔵書は約1万点にのぼります。
この好学の藩風が代々伝えられ、学問・文化の育成に努めました。能楽の振興もその中の一つです。
松平文庫の中には、能・狂言関係の文書や書籍が数多く所蔵されています。
またほぼ200年にわたる藩日記や、松平島原藩の歴史などが記された『深溝世紀』が残されています。
それらを見ると、島原では藩主や家臣だけでなく、庶民も能楽を楽しんでいたことがよく分かります。
忠房藩主はことのほか能を好み、島原在任中で17回を記録。特に隠居後2年で19回を数える。
延宝8年3月7日~9日「散楽を大書院前の舞閣に張り、家士及び各村庄屋をしてこれを観しめ午飯を賜う」
天和2年1月3日「初謡の儀を行う。命ありて、公、将軍の左傍上頭に侍坐す。皆殊格なり」
同年7月7日・9日「将軍の継世を慶び散楽を張る」――この時、島原町人が出演して褒美を頂戴しています。
貞享元年5月25~6日「(忠房の)昇階を慶び散楽を月城外に張り、民にゆるしてこれを観しむ。午飯を賜い、殊死以下の罪を赦す」――忠房も雲林院と源氏供養の2番を舞っている。
元禄11年11月4日「公(忠雄)、老公(忠房)の退老を慶びて散楽を張り士民にこれを観るをゆるし、午飯を賜う(およそ千八百余人)」
度々能楽が催しされ、吉事には領民も招かれて共々喜びを分かち合っています。
文書類の中にも貴重なものが残されています。
『乱伝書等』(95-1)中の「乱仕舞附」には、「乱」を舞うときの動きを事細かに朱で書かれ、藩主の熱心な稽古ぶりが伺われます。
『装束附古例』(96-5)には165番の能番組とそれに用いる能装束などが書かれています。
『能面之目録』(同)もあり、28面の名があがっています。また『面之名』(同)では、その面がどういう番組に使われるかをまとめています。
肥前島原松平文庫の記録
「肥前島原 松平文庫」は、旧島原藩主松平家が歴代にわたり蒐集(しゅうしゅう)・所蔵していた古典籍類でです。
現在、島原市が所蔵し、長崎県有形文化財に指定されています。
寛文9年(1669年)、島原藩主に移封された松平忠房は、その家風もあり、文学・歴史・兵法・絵図など、天下の貴重本を蒐集しました。
歴代藩主も学問を好み、古典を愛し、これらの遺風が継承されていきます。
また、これらの蔵書類の中には、寛政5年(1793年)に設立された藩校「稽古(けいこ)館」の教科書として活用されたものもあり、藩学の基礎を樹立し、数多の人材の輩出に役立てたと言われています。
貴重な資料の中には、島原で能が愛されてきた歴史を伝える史料も多数あります。
三之丸絵図(72-89)
島原城三の丸にあった御殿の部屋割りなどが描かれたもの。
藩の政務や藩主の生活が行われていたすぐそばに能舞台があったことがわかります。
能舞台の背後には島原城の天守閣が見えるよう設計されており、勇壮な景観だったと思われます。
島原藩日記 貞享元年6月29日
『一御位階御内証御祝 後日の御能遊ばされ候』『源氏供養は、何もお願い申し上げ遊ばされ候事』と記載があります。
枠で囲んだ『上』は藩主松平忠房の事です。藩主自ら能を演じたこと、また家臣から所望され源氏供養を演じたことが書かれています。
島原藩日記 元禄9年7月30日
『御留守中に脇田小兵衛取立て指南申し候 子どもに、今昼、囃子仰せつけられご覧遊ばされ候。』の記述の後、市民の演者が書かれています。能は市民にも広められ浸透していた様子がわかります。
宝生大夫重孝松平忠房宛仕舞付(能之覚)(95-2-10)
松平忠房が宝生大夫重孝へ質問の書状を送ったのち、宝生大夫重孝から返送された書物です。
質問への回答(衣装や演出上の注意点)が書かれています。後半には追伸として松平忠房の舞台を拝見したいと書かれています。
このほかにも松平文庫には貴重な資料が保管されています。