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島原藩の能楽 ~江戸時代の能楽の発展~

松尾卓次(島原城専門員)

700年前に始まった能は室町幕府の保護もあって武士階級に広まっていく。権力を握った豊臣秀吉は能に打ち込み、稽古するだけでなく、自らの功績を題材とした「太閤能」を創作する。さらに金春・観世・宝生・金剛の大和4座の役者たちに給当米を与えて保護し支配下に置く。この保護政策は次時代へ受け継がれていく。

江戸時代になると、能は幕府の式楽となる。江戸城や西の丸(西城)には能舞台があって、幕府の公式の宴には必ず能楽が開催されていた。将軍の代替わりや祝事、貴賓の接待など公式の行事にほとんど能楽が関わり、能楽自体が幕府の欠かせない行事となっていく。島原松平家は譜代大名であり、家康以来の信頼が厚かったので、よく招かれて将軍に近侍して共々能を楽しんでいる。

能が幕府の式楽となると、諸大名も能役者を雇うようになる。島原藩は将軍家と強く結ばれていたから家康が習った観世派が主流となる。忠房藩主は能好きのお殿様でよく能を催し、その数30回以上と記録に残る。また松平文庫の中に「能・狂言」関係の本が多く見られる。忠房公が1689(元禄2)年に宝生大夫から『能謡之覚』を賜う。

5代将軍綱吉は宝生派を贔屓にしていた。8代将軍吉宗は質素倹約の政治改革で能楽も影響を受ける。島原9代藩主忠誠の時には金剛派が領内に広まったと記録にある。

次第に能楽は庶民にも広まる。藩主は時には一部の町人や農民を招いて共々慶事を喜んでいる。これらをきっかけにして豪商や豪農は教養として能楽を学び、中には有家の糸岐太郎右衛門のように招かれて藩主の前で演ずることもあった。「謡」が広く愛されて庶民にまで広まっていく。

島原藩内の豊後高田・算所村には能楽や歌舞伎、舞を専門にする芸能集団があって生業としていた。藩主に招かれて演じたり、各地で呼ばれて公演していた。島原にはそのような能楽の下地が存在したのである。当然のことながら、それが現在までも伝わっていて、毎年秋の島原城薪能で楽しむことができるのである。

 

歴代藩主の能楽開催の記録

4代 家忠

東照宮(家康)の初謡に侍座する。これ以来慣例となる。東照宮は観世座を能4派の筆頭として保護していたから、当時の藩主も観世能に親しんでいたであろう。
天正7(1579)年正月2日「浜松城に登り、歳首を賀する。本多平八郎忠勝はこれを称賛する。晩には初謡の儀を行い、登城して侍座する」とあり、これが東照宮の初謡に列席する最初で、その後も公が在府中は将軍に召されて侍座することとなる。
文禄元年の初謡では東照宮が肩衣を脱いで曲部(役者)に賜う。公ら侍座する諸侯もみな肩衣を脱ぎ、扇を握り投与する。これが幕府の後年の例となる。

 

5代 忠利

公の盛んな芸能活動と交際の広がりがうかがえる。
慶長15(1610)年の初謡に儀では、公は東照宮の左に座する。ここに列する者は松平忠吉・松平忠実・本多康後で、右列には最上家親・小笠原秀政・浅野長政・西郷忠員・牧野忠成が座していた。
寛永4年に公は大坂守衛を命ぜられ在勤する。その間、畿内の芸能者と接客し閑日なし。長谷川宗甫(連歌)狩野采女(絵画)池坊徳斎(生花)観世伊兵衛(能楽)幸若喜之助(舞)らと交わる。大坂を去るとき、諸人みな別れを惜しむと、記録されている。
寛永7年5月27日、松平陸奥守(伊達)政宗が公を招いて能楽を見る。

 

6代(島原初代) 忠房

能好きのお殿様で、在任期間も長かったからその数36回。江戸在府中は将軍家の初謡に侍座し、在地では正月の初謡を欠かせず。忠房公は文武の芸を好むが、国学や和歌、騎馬、能楽はその真髄を究める。晩年腰痛を患うが灸で治し、能楽でその苦労を慰めている。
元和2(1616)年の幕府の初謡では将軍の左席上座に座る。これは特別なこと。
延宝5(1677)年12月21日に島原城三の丸御殿の落成では、御神酒を置いて能楽(高砂・東北・猩々の3曲)を催し、宴を諸士に賜う。また夢見が良いと能楽を催す。
元禄2年に宝生大夫が『能楽之覚』を賜う。これは宝生流宗家第9世宝生将監友春が姫路へ行き、藩主本多忠国に指導し、師匠が稽古で地方に出かけたことがうかがわれる。
元禄10年11月4日忠房公は退老(退職)を喜んで能楽を催し、武家庶民を問わず見ることを許し、昼食を賜う。およそ1800人。自ら東北・花筐を舞う。
隠居後の元禄12年には月に2回ほど能を催して、自らも柏崎・山姥・野宮・阿漕などを舞う。ますます能に打ち込む。

 

7代(島原2代) 忠雄

忠房公に次いで在位も長く、能楽に親しんでいて24回催すと記録あり。
元禄6(1689)年8月晦日、将軍は能楽を催す。公は命を受けて「敦盛」を舞う。翌7年にもまた命で謡舞(曲名不詳)をする。将軍に披露できる技能を持っていた。
宝永3年の初謡では忠房公と同様侍座を賜う。家忠以来始まり、世々例となっている。
宝永6年5月23日、高田の庄屋源助が来て能楽を催す。曲部はみなその仲間を用い、25、27日にも催す。源助には舞衣2領と銀10枚、他に物を賜う。(算所村芸能集団)

 

8代(島原3代) 忠俔

在位が短く記述が少ない。
享保20(1735)年11月11日、御国入りを喜んで家士を招いて世禄の臣に印書を賜い、盛大な能楽を催す。武家庶民にも許し、酒飯を賜う。

 

9代(島原4代) 忠刻

公は病気がちで参勤途中で病死するが、多芸で最も流鏑馬など射術を良くする。その他儀容(小笠原流)謡曲(観世流)や絵画(狩野派)に蘊蓄を極める。
元文5年正月22日公の厄入りで能楽を催し、庶子の妻女にも見せ、昼食を賜る。
延享4年2月18日、高田の能楽師を召して能を催す。
享保2年江戸城紅葉山防火使を命ぜられ、幸清次郎・今春三郎右衛門を招き囃子を張る。

 

10代(島原5代) 忠祇

父の急死のために15歳で後継、宇都宮へ転封となる。が、早々に隠退し、記録が少ない。

 

11代(島原6代) 忠恕

宇都宮時代の緊縮財政で能楽どころでなかったが、島原再転封で復活する。
明和5年正月、節倹のために初謡の儀を止めるとの記事が出る。後で復活する。
安永4年11月28日、この年再び島原移封で、能舞台を島原に造る。
安永5年正月、公は初謡の儀を行い、先公の島原在勤時のように催す。
安永6年4月2日、能楽を催して公は謡曲「翁」を舞う。
安永7年3月9日、高田村庄屋徳蔵(芝崎村庄屋一左衛門、町人権九郎や長左衛門)らが来る。公は謁見して能楽を催す。徳蔵はその昔、忠房・忠雄両公が賜った舞衣を持ち、それを着て「龍田・葵上・融」の3曲を舞う。帰りに公は舞衣を賜う。他にも物を賜う。
天明7年11月5日、能楽を催して別当や庄屋らを召してこれを見させて、酒飯を賜う。

 

12代(島原7代) 忠馮

公は重厚沈黙、識量深遠で文学を好む。学士を近侍に当て、日夜交替して勤めさせる。詩や俳諧、書画、茶儀、謡曲に巧み。島原大変後の復興中も、能楽を忘れずか。
寛政3(1791)年3月25日、将軍は勅使をもてなして能楽を催す。公も召されて楽しむ。
文化14年5月2日、能楽を催して領内の富民糸岐太郎右衛門を召し出す。公はその者が謡曲を良くすると聞き、「蝉丸」の独吟を命じ、磯永文左衛門に鼓を奏させる。終って太郎右衛門に朱漆盃、文左衛門に白銀を賜う。
同年11月28日、公は家族ともども松平定村(養子先家老)宅を訪ねる。定村は囃子を張り、減次郎は「田村」を舞う。

 

13代(島原8代) 忠侯

公の文学好みは天性のもので、勤例類彙などをまとめ、29年日記を書き続ける。毎月6度各々日を分けて、兵学・騎馬・鉄砲・謡曲などの師を召出して演習する。
文化12年2月晦日、有章将軍の百年忌法会で、将軍の詣拝に公も随行。法会後能楽あり公も招かれる。同年東照宮2百年祭があり、随行して勅使や公卿と能楽を見る。
天保9年、金剛右近が公に秘曲を伝える。

 

14代(島原9代) 忠誠

たびたび能楽を催しては病気回復の治療とする。
弘化2年5月22日、公は俄かに寒気転筋(痙攣)して疳症(胃腸障害)を発病。
同年、公は観月の宴を設けて能楽を催し、「放下僧」を舞う。それから数々能楽を催して病気回復の治療とする。
弘化3(1846)年正月12日、大友勘之丞(江戸の謡曲師、金剛流)が奈良で公の病を聞き駆けつける。公は喜んで相手、領内の少年で入門する者多し。一時流行して鼓笛の音が四方に聞こえる。

 

15代(島原10代) 忠精

在位が短く記録が少ない。
安政3(18566)年12月21日、江戸城本丸で能楽を催す、公も召されて楽しむ。
安政5年12月2日、将軍の宣下、皇使を饗して能楽を催し、公を召して見せる。

 

16代(島原11代) 忠淳

在位が1年足らずで、島原在住せず。記録もない。

 

17代(島原12代) 忠愛

このころ幕政改革で、幕府の式楽もすたれていく。
文久2(1862)年8月、幕府は初謡の儀や慶事などで時服を賜うことを止める。諸侯の歳時の献物を止めさせる。

 

18代(島原13代) 忠和

明治維新で、長い歴史のある芸能村集団が消え去る。また島原藩の能役者も失業となる。しかし島原町民が支えて能楽は続いていく。
慶応3(1867)年7月、幕政改革で算所村民の演武場開催が禁止。昔から芸能が生業であったので、農耕につくが慣れず、藩は毎年20石を支給して貧困を救う。しかし近国ではしばしば演技場を開いているので、村民は旧業に戻って生業を営みたいと願う。公は島原以外での開催を禁じ、それで給付を半額とする。
明治元(1868)年10月晦日、世禄の臣の猿楽配当米を廃止する。旧藩時は諸侯以下世禄を賜わる者に命じて米を納めさせ、奈良の猿楽曲部(能役者)に与えていたが、朝廷が廃止するのでその通りにする。

(おわり)

〈主要文献〉「高来の雫」「深溝世紀」「島原藩日記」

(島原新聞掲載)